Tuesday, March 22, 2005

資料:女性の病の社会史

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《特別講演》
女性の病の社会史
コスモ女性クリニック    野末悦子


(1)はじめに

  今日は日本医学史学会にお招きを頂き、講演をさせて頂くことを心から感謝申し上げたいと思います。会長の杉田先生から、お話がございました時、歴史の知識 の乏しい私にはとても無理ですと申し上げたのですが、杉田先生のお言葉に背くわけにもいかず、お引き受けしてしまいました。

 その後、杉 田先生からは立派な、ご本をお貸し下され、それが、この富士川游著「日本医学史」(1)です。この他に文献としましては、夫の父(矢数道明)の所蔵する本 (2)(4)と、私の家にあった本(3)(5)(6)などを参考にしまして、にわか勉強をさせて頂くことになりました。

 その結果、どう も、どの本を読んでも、出典はほとんど同じものらしく、同じようなことが書かれていることに気がつきました。また、太古より、朝廷や大臣のような高貴な方 々の歴史は残っているものの、その当時の庶民がどんなだったのだろうかというのは、大分後世にならないとわからないということがわかりました。でも、せっ かくの機会を頂き、滅多に読むことのない本を読むという貴重な体験をさせて頂いたのですから、少し、これらの本に書かれてあったことを中心にお話をさせて 頂きます。

(2)神代

 文字のなかった時代のことは、当然のことながら記録がないので、不明となっているのは止むを得な いのですが、「古事記」や「日本書紀」によれば、イザナギ、イザナミの命のまぐわいから日本の国が誕生し、これは生殖を意味するので、最古の医療は産婦人 科ということになるのでしょうか。コノハナサクヤ姫が諸々の神を作られた後、最後に火の神を生んで火に焼かれて死んだとあるが、これは産褥熱ではなかった かという説もあるそうです。また、このお産の時には産室を作ったとされ、最後の彦火々出見命(ヒホホデミノミコト)が後に皇位を継承しているので、後に誕 生したものを長とするという考え方(双生児の場合)と通ずるのではないかという説もあるとのこと、また、豊玉姫の産室を海浜に作った故事にならっている地 方もあり、産室で産後の褥婦を暖めるために火をたく風習も琉球や徳の島に残っている由。

 臍帯切断には竹刀を用いた。これは今も宮中や宮家に儀式として残っているとのこと。豊玉姫の時代に、すでに乳母の風習があり、乳母(チオモ)湯母(ユオモ)飯嚼(イイカミ)湯坐(ユエヒト)がいたそうです。 

(3)奈良朝前(BC97~AD710)

 701年文武天皇の時代:大宝律令の医疾令第16条で女医養成が記され、これで、産婆、看護婦を養成したらしいが、後にこれは廃止された模様。お産と白粉の製法を行った。神宮皇后の鎮懐石が後の岩田帯の始まりとする説もあった。

  お産の姿勢には坐産と臥産があるが、豊玉姫は臥産、景行天皇の皇后と神宮皇后は坐産のようだ。臼によりかかってお産をした、樹木に手をかけてお産をしたと ある。アイヌに臼によりかかってお産をする風習が残っているという。このころ、多産が奨励されている。賜りものとして、綿、布、稲、乳母、などの記録が天 武天皇の673年にある。

 卜、占が盛んで、お産の際に産綱に干物の鮎をつけた。これも玉島村に残る風習。祇園祭りの出山のくじ番で出産の難易を占うこともこの頃の名残とか。

(4)奈良朝(710~784)

 722 年に女医博士が制定されているが、その内容については不明。仏教伝来以降、女人の一切を罪悪視するようになって、婦人の出産、月のものを不浄視するように なった。別室にする、神仏参拝はだめで、また竈や井戸に近寄らせない。これは江戸まで伝えられている。とあるが、昭和の時代にもあった。

(5)平安朝(784~1186)

  仏教の支配した時代で、加持・祈祷・僧医。最古の医書「医心方」30巻が984年に出されているが、これは、唐の「産経」「千金方」よりの摘録である。妊 娠中の過ごし方の中で、六ヶ月には野外に出て、走犬や走馬を見たり、鳥や獣の肉を食すべしと肉食を進めている。しかし、塩分の取りすぎはいましめており、 妊娠中毒症の予防と通ずるものがある。産所の建設とその向きについての記載もある。安産のまじないに「夫外より水を口に含んで婦の口中に口移しすること 27度に及べばたちどころに児生まる」とあり、ラマーズのようだ。

 胎盤を埋める吉日吉方を陰陽師に聞く。臍帯の切断は銅刀を用い、長く(67寸~56寸)沐浴は当日は清拭のみ、2日3日に行った。子供が弱い時には臍帯切断を行わず、浴湯に入れ、後に切断、薬液湯を用いた。

 腹帯、昔は衣の外、今は内、(1264)時期は五ヶ月、その後鎌倉では6~7月。 産所。陰陽師により選定、里方または別の家一村共同の産屋(福井、香川)母子保健センターのはしり。

 分娩を介助する助産婦の始祖は1077年皇后の出産の記録によれば、腰抱(側仕えの老女または格式のある経験豊かな女房)支那からの伝来語。後に江戸時代には取上翁が出現し職業化。腰抱→取上婆→産婆。 臍帯切断は、継ぐとされ、小刀、咬断、焼断。

 沐浴は翌日または翌々日に産湯の儀。 血忌触穢は上古にはなし、奈良、平安朝で仏教の力が強くなるにつれて月経中や妊娠中の女性は別扱い、家族と火を分かつ。

(5)鎌倉時代(1186~1334)

  医学書では1303年に「頓医抄」、1315年に「覆載万安方」が出された。「万安方」の62巻の中、31~38が婦人門、婦人の諸病、妊娠の生理、妊娠 と陰陽道、妊娠中の疾病、その治方、産室の準備、臨月予備の薬品、催生の霊符、異常妊娠、産後の疾病、治方。39巻は小児編で、断臍、臍帯の保護、剃髪、 乳母の選定。宋の「婦人大全良方」(1237年)が僧により持ち帰られたのにならったと思われる。

 沐浴には薬品、香木、珠玉を入れた。 妊娠した児を男児にする「変性男子の法」が祈祷により試みられた。 産後の摂食。古来産後7日間は安眠させず、座らせていたが、性全はこれを大害と。禁食 には多くの果物や魚類が、また好物にも果物、野菜、魚、鳥や獣の肉が上げられている。身体を冷やすものが禁食の方に多いようだ。 胎教として、禁食がいろ いろ紹介されている。兎の肉を食すと、欠唇、羊の肝を食べると子に厄が多い、ろばの肉を食べると延月難産になるなど。

 「産所は移転」「腹帯の儀」は五ヶ月には限らない。また、「戌」の日にも定めず、「酉」「子」の日が多かった。1230年、北条泰時の頃から「戌」の日とされた。臨産時には「鳴弦・蟇目」弓を用意(武家)

(6)室町時代(1334~1568)

  中国(明)に留学したもの多く、竹田昌慶、坂浄運、田代三喜、和気明親、吉田宗桂、金弘重弘ら。医書としては「福田方」(1362)有隣(僧)による 12巻があるが、新しい内容はない。初の産婦人科医:安芸守定、1358年に足利義光の誕生の際の侍医として仕え、後、宮中にも。医書「撰聚婦人方」3 巻:南条宗鑑による処方録。上巻、月経、妊娠婦人諸病編。中巻、妊娠中傷碍、45編。下巻、臨産及産後諸症66編。本書が最古とされているが、金沢文庫所 蔵の鎌倉末期「産生類聚抄」2巻の方がこれより以前のものかもしれない。

(7)織田・豊臣時代(1568~1615)

  室町末期に田代三喜が明より李朱医学をもたらし、曲瀬道三がこの説に従い、1571年に「啓迪集」8巻を著す。この第7巻が婦人門で、胎前、産後の2編、 助産についてふれているが、特色はない。産科専門医書としては「中条流産科全書」1668年村山林益出版。膣内に薬品挿入、膣座薬、タンポンの始まり。堕 胎と間違われたもよう。

(8)徳川時代(1615~1868)

前期:香月牛山「婦人寿草」(儒医)上中下6巻、取上婆のはじまり、職業化。

中期:古医方が再び力を取り戻す。

 賀川子玄「産論」鉄鉤の発明。胎位についての正論。腹帯無効有害説。産後7日間の跪坐に反対。娩出術の発明、回生術、穿顱術。これらは一子相伝で、秘伝とされた。

 職業産婆が認められたのは、徳川前期であるが、産婆の語源は支那。1765年賀川玄悦の「産論」に記載あり。 腹帯論:有害・無害両説あり。折衷論、改良論あり。

 当時の産科書も多く、「無難産安生論」や「産論」「産論翼」「産育編」など。

後期:古医方が盛んになり、後世派は不振。オランダ医学の輸入。1825年シーボルトが長崎に来住。産科は賀川家及びその弟子たちによっていよいよ盛ん。

 賀川満定に女医博士の辞令。鉄鉤を改良。

 賀川蘭斎、人工流産の記載。「産科秘要奥術弁」(産科免許秘録)「堕胎の術」(牛膝(ゴシツ)イノコヅチの根)を用いる(ラミナリアあるいはブジーと似る)。

 片倉元周「産科発蒙」オランダ医学導入。黴毒、ライも治療。

 奥劣斎、多くの著書あり。名文「母子両全の術」「発啼術」 蛭田克明、名医なるも著書なく、口伝のみ。

 立野竜貞、産科機械考案し、子宮口切開「割宮術」「産科新論」3巻、1819。

 水原三折、探頷器1835年考案。オランダ、ウィンケル産科全書に紹介される。「産育全書」11巻、破膜器、カテーテルなど発明。

 難波本立、「胎産新書」1844年。 平野重誠、「坐婆必研」「とりあげ婆心得草」2冊1830年。始めての助産婦の本。

 賀川南竜、「南陽館一家言」解剖図。

 伊古田純道、帝王切開元祖、1852年。

 足立無涯、オランダ流産科開業の祖。

 高井伴寛、「淫事養生戒」1815年。妊娠中。

 羽佐間宗玄、「老婆心書」腹帯強くは禁。

 松本義篤、「養生訓付録」貝原益軒に追加。

 華岡青洲「産科銷言」。

 美馬順三、賀川子玄「産論」をオランダ訳し、ドイツ産科雑誌に紹介(シーボルト)。

 神田実甫、「蘭学実験」1846年、外妊の記載。

 稲葉蚕水、「復古明試録」1803年、妊娠と脚気。

(9)むすび

  以上、駆け足で、神代から徳川時代までの主として産科の記述について触れてきたが、「女性の病の社会史」という頂いたテーマからは大分離れたものになって しまったのではないかと思う。女性は生む性に違いないが、女性の病は産科だけにはとどまらないはずであるから、もっと広い視野に立ったアプローチがあるは ずなのだが、今回得られた資料からは残念ながら、それは叶えられなかった。近代になって、女性が社会に進出してからの病には、結核があり、また、それ以前 から梅毒その他の性感染症など、女性史の立場からも研究されてよいテーマであろう。

参考文献
 1.富士川游:日本医学史 真理社 1952
 2.梶完次・藤井尚久:明治前日本産婦人科史、明治前日本医学史第4巻 1-210 1964
 3.富士川游・小川鼎三:日本医学史要綱 1-2 平凡社 1974
 4.小川鼎三:医学の歴史 中央公論社 1964
 5.大塚恭男:医学史こぼれ話 臨床情報センター 1995
6.まや万沙子:隠された女の時代 松香堂 1999

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